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9月1日〜15日9月16日〜30日

 

 

9/15(金)

オリンピックの開会式は一大エンターテイメントっぽくて大好き♪ 毎年わ

ざわざ外部スピーカーにして、マトリックス接続で臨場感ばっちりに見てお

ります。(笑) そうそう、ふと画面に目をやると ビル・ゲイツが楽しそうに

会場で見てましたね。 ・・ ミレニアムの秋葉原での深夜発売イベントが

ぜっ不調なのに 遊んでていーのかねぇ。(笑) (10本売れましたってな

んだよ遊びじゃねーんだから、でもま、ミレニアムだしな 誰も買わんか)

そんで ふと浮気をしてチャンネル変えたら、ミュージックステーションで

Aikoが アップルの 『 シンク・ディファレント 』 ならぬ 『 シンク・ディ

フィカルト 』 って書いてある、リンゴじゃなくて 洋ナシのシャツを着てい

まいした。(笑)(つまりパチモン) あれ欲しいなぁ〜 どこで売ってるんだ

ろ ・・ とまあ、脳無しトークはやめにして チャットにでも行こ〜っと♪

 

9/14(木)

私が小学生だった頃、クラスにとある少女がいた。

彼女はいわゆる “ほんの少し脳に問題のある子” であり、特別学級

とか言う名前の、独自のカリキュラムを受けていた子であった。 しかし

ながら、彼女が私と同じような ごく普通の小学校へ通っていた事からも

わかるが、彼女の病状は どん底に絶望的なものではなかったはずだ。 

けれど、小学生くらいの子供は時として残酷だ。 彼らはクラスの中と言

う群れの中にいる “異質” なものを 知識としてではなく、直感的な感

覚として認識する。 彼女にどう接して良いかわからないと言う 戸惑い

から来る、一種恐怖心にも似た気持ちを 誰もが持っていたのだと思う。

早い話が教育チャンネルで放送されるような、誰もが優しい優良なクラス

ではなかったわけだ。ある意味ひどく現実的な話だが、そうなると あま

りよくないことが起こる。 例えば 彼女の言葉使いや行動の揚げ足をと

り 数人の男子や女子が、陰湿で執拗なイジメを繰り返す・・ などという

“想像通りの行為” ならばまだマシだ。 しかし実際起こる事態は それ

よりもさらに残酷な “無視” である。 ひどく日本的なものだと今になっ

てすれば思うのだが、 まるでそこに彼女が存在していないかのように、

クラスが “無視” をする。 彼女の話題や彼女に触れることは ある意

味でのタブーとして処理されるわけだ。 おそらくこれは 彼女にとって、

否定されるよりももっと酷い仕打ちだろう。 なぜなら彼女と言う人は、す

でに存在しないものとして クラス全員に “殺された” わけだからだ。

だが実際問題として、彼女が完全にクラスから消え去ることはなかった。

それはもちろん教師の助けもあるが、 彼女の明るい性格が、幸いしてい

たのだと思う。 おそらくクラスの中で、もっとも多く彼女と話をしていた私

は、彼女の中に 他の生徒は持っていない 非常に知的で、観察力豊か

なモノがあるのに 純粋に驚いていた記憶がある。 私は読書家の母親

の影響で、覚えていないくらい昔から よく本を読む子供だったのだが、

そういうタイプにありがちな、ネクラな ヒョロヒョロしたモヤシッ子らしから

ぬ性格と体格(笑)のせいで、いじめたりいじめられたりした経験はない。

どちらかと言うと、いじめたりいじめられたりいろいろやっているクラスを

1番後ろの席にのんびりと座りながら 『 子供だねぇ〜 みんな 』 と

眺めているような、いわゆる変人だった。 なので私には “タブー” が

通用しなかったのだ。 そして その頃すでにいわゆる “精神に問題の

ある人物” を主人公にした 中世の名作(小説)なんかも読んでいたの

で、あまり抵抗がなかったのかもしれない。 もっともそうした人々が、ま

るで社会のタブーのように扱われ お世辞にも日の当たる場所で伸び伸

びと暮らせないのは 現代の日本くらいのもので、中世も江戸時代の日

本も 人間が “狂う” 事はわりと日常茶飯事的なものだったのだ。

そうした意味では日本社会は随分と子供っぽい。そして時折狂い、すべ

てを吐き出すこともできないので、真面目な中年サラリーマンが定年間

際で発狂したりするのだ。 精神に問題のある人間の通常企業への就

職は難しい。 ・・ 彼女の事が直接の原因ではないが、私はその頃から

“精神病” と言うか “精神” に興味を持っていた。 私の一族が医者

だらけで、私自身も医者の孫だと言う話は この日記で何度かした覚え

があるが、見まわしても精神科医は見当たらない。 一族の医者はどれ

も絵に描いたようなバカで 尊敬など1ミクロンもできない連中だが、近

所の、昔 私の家(元病院)に勤めていた老人の医師(現在は独立した

医者)は一角の人物だ。 まぁ、そんなこんなでいろいろあって 私は一

人の精神科医の存在を知る。 彼は今では超有名な人物になっている

のだが、ともかく物凄く頭の良い先生で 恐ろしく “文章が上手い”

早い話がファンなのだ。(笑) とりあえず彼の著作は全部集めて、“私が

死ぬまで売らない本”のリストの中に入っている。 それからまあ、いろい

ろあって 精神病の本をいろいろ読んだり 心理学に流れたりしてあれこ

れやっているうちに、思春期らしく倫理や哲学を渡り歩いて現在に至る。

もっともだからと言って “医者になろう!” と思うような単純な人間では

なく変態の変人だったので、 それとは別に横道にそれまくっていたので

はあるが、まあ 『 そーゆー面もあったような気がするなぁ 』 と言う話

だ。 よって高校や大学の授業で、数学やら英語やら 普通のものはへ

ろへろのぷーのクセに、倫理学や心理学、哲学方面の授業は1度も聞

かなくても 物凄い点がとれると言う 『 だからどうした 』 と言う特技も

身についたのだが、 おかげで 『 エヴァ 』 が非常に面白くて (笑)

未だにこうして ネットの場末で 日記を書いている始末だ。

先日、古い知人(医学部)から電話があって “そういった患者達にいろい

ろ接した感想” みたいなのを聞いた。実は私も大昔にそういった事を

“体験” というか “見学” したことがあるのだが、普通の人には純粋に

ショッキングなモノである。 毎朝必ず大声でお経を叫ぶ中年男性や、

一日中部屋の中を 時計回りに回りつづける女性。 部屋の片隅に身を

ちぢませて、ひたすら壁に張り付いている青年。 もちろん彼らのそういっ

た行動には ちゃんとした根拠があるものであり、ひどく真剣に行われて

いる行動なのだが、一般には理解しがたい。 さらに素人にはコミュニケ

ーションも満足に成立させることは難しい。 けれど彼らは治癒する見

込みのある患者であり、誰もがなる可能性のある姿だ。 精神科医の中

では 『 風邪の次によくかかる病気は? 』 と聞かれて 『 鬱病(うつ

病) 』 と答えるものも少なくないらしい。 自分にも心当たりはないだろ

うか? 道端で包丁を持った殺人者に出会うことは確率的に物凄くマレな

ことであるが、 誰の中にも “心の殺人者” は潜んでいるものだ。

・・ どうもアスカの事が思い出される。 と 言うのも、 彼女ほど明確に

起承転結をつけて “精神崩壊” を起こしたアニメのヒロインは稀であ

るからだ。 エヴァは時として、 悲しいほどに冷酷で無常なアニメだ。

碇シンジにシンクロ率で負けたことにより、かろうじて保たれていただけに

過ぎない アスカの心の平静は揺らぎ始め、そこへ使徒の精神攻撃がトド

メを刺した。 彼女が心を汚されながら 必死に助けを求めた加持と言う

男も、結局彼女を助けてはくれなかった。 それどころか、愛しい男は、

葛城ミサトに奪われてしまったのだ。 アスカはその事をちゃんと知ってい

た。 しかしながら、彼女はミサトへの “嫌悪” や “憎しみ” の念をあ

まり持っていないように見える。 一瞬 彼女の怒りの矛先は、人間全体

や社会へ向けられていたのかとも思うが、恐らく彼女の壊れた心を支配

していたのは、 怒りよりも “無常感” に近いものだったのではあるま

いか。 アスカは恐らく 強靭で攻撃的な性格にも関わらず、 実のところ

は他人を蹴落とし、傷つけ続けて生きていく自分に耐えられるほど傲慢

な人間ではなかったのだ。 (繊細とも言える。潔癖症かもしれない。)

・・ 誰の言葉も聞かず、自らの思考の迷路に迷いこみ ・・ 挙句の果て

に唯一の希望である “死” に到達しようとした彼女は、危ないところで

病院に収容される。 あきらかに “異常” であるその姿を目にして、私

のとある知人は 『 アスカは自閉症になった 』 と言った。 ・・ しかし

厳密な意味では これは間違いだ。 普通の人は 『 自閉症 』 と聞く

と 『 自らの殻にこもり、外界の刺激を一切否定・遮断するようになって

しまった 閉じこもり人間 』 を連想する。 だが 『 自閉症 』 とはそ

の名前から容易に推測できるような症状の病気ではない。 むしろ先天

的な要素が多いものだ。 ・・ アスカの病状は悪性の“鬱”(うつ) もしく

は “精神分裂病” の一種だ。

『 精神分裂病 』 は精神病の中でも治療が難しい病気だ。 精神が文字

どおり、割れたガラスのビンのように 粉々に砕けて 散らばってしまう事

を言う。 心が壊れ、自分が壊れてしまうのだ。 ・・ それを治療するため

には、 そのカケラをひとつづつ集めて、再び張り合わせて 心をもう1度

作りなおさねばならない。 一人で集めるには数が多く・・ 必ず一緒に

あつめてくれる、良き理解者(時に家族や精神科医)が必要だ。 慎重に

たっぷりと時間をかけなくてはいけない。 急いで無理矢理つなぎあわせ

ると 心はいびつなカタチに出来あがってしまう。 また完全に元通りにな

る保証はない。 美しいガラスビンを作るより、 粉々に砕けたガラスの破

片の山から、ガラスビンを元通りにすることのほうが100倍難しいのだ。

アスカはおそらく自ら進んで食事や排泄などの行為をすることはなく、むし

ろそれを拒む傾向にあっただろう。 看護婦などの言葉にも一切反応せ

ず、働きかけにも応じない。 しかし彼女には決して、他人が “見えてい

ない” のでも “気にしていない” のでも “見ていない” のでもない。

分裂病者は概して他人に視線を合わせない。 例えベッドの側にいっても

反応はしない ・・ と 一般には思われているが、実はそうではない。

眼球で捕らえてはいないが、網膜の隅で ・・ 気配で ・・ 音で、匂いで

側に来た者を 『 警戒 』 しているのだ。 決してぼんやりと、散漫な注

意を払っているのではない。 彼ら・彼女らは全神経を使って 未知なる

外敵を警戒する。 不意の攻撃に身構えていると言った方がいいかもし

れない。 ・・ つまり、アスカにとっては周囲は闇なのだ。 劇場版で描

かれたように、 彼女は薄暗い ・・ 光の届かぬ水の底で、 弱々しく身

を縮め ・・ 外敵からの攻撃に怯え、震えあがっていたのである。

まわりの世界すべてが、自分を狙っているように思える ・・ つまり、精

神分裂病とは 『 人間が極度の恐怖に陥っている事 』 なのである。

闇の中には敵がいる。 彼女を狙う者の影がうごめいている。 それを

察知しようと彼女は身構えるが、 悲しいかな その変化は驚くほど小さく

“微かだ” なぜなら彼らはその認知レベルを、私達の想像を遥かに超え

て淡く 微かなもののみに “合わせて” いるからに他ならない。

よって 彼女の、いや 分裂病者の治療にはまず、その “認知の内側

に入ること” から始まると言われている。 具体的には “敵でないと言う

事” を示すのだ。 自分は危害を加える存在ではない。 彼女の内なる

想像の世界に、破壊をもたらす者ではないと。 そのためには少女のそ

ばにいなくてはならない。 一日数十分、あるいは 数時間 ・・ 適切な

時間はその症状によって違うと聞くが、 精神科医でない私にはそこまで

具体的なことはわからない。 ・・ ともかくそれを繰り返す。 少女のそば

に 毎日付きそうことで、彼女を安心させ 極度に鋭敏化された認知の内

側に、それを乱すことなく入らねばならないからだ。 すべてはそこから始

まる。 ・・ しかしながら ・・ アスカにそうした精神的に適切な治療が施

されていたとは考えにくい。 彼女の栄養失調から来るであろう 衰弱は

点滴などの治療で改善していたようだが、 彼女の心理的なケアがなされ

ていたようには見えなかった。これは考えてみると奇妙な話だ。 ネルフ

の医療設備は どう見ても最新鋭の高級なものが揃っているように思え

る。 シンジが生死の境をさ迷った時も、 まるで棺桶にもにた自動治癒

装置らしきモノに入れられ、機械が自動的に最適な処置をしているように

も見えた。 そんな設備を揃えられる病院に、精神科が無かったり 精神

科医が一人もいないのはおかしいのではないか。 確かに精神病院と言

うのは一種独特の機関で ・・ 博愛や福祉の綺麗事を叩き潰すのを承

知で言ってしまえば 『 収容施設 』 だ。 肉体を病んだ者とて同じこと

ではあるが、 とかくこの世は精神を病んだ者にはキツイ、競争社会だ。

タフで精神の強い ・・ 他人を出しぬく、悪く言えば図々しい人間が勝ち

残る資本主義社会において ガラスのように砕ける心を抱えた者は生き

ずらい。ともして砕ければ、競争に敗れ置いていかれ、彼らは社会から

弾き出される。 捨てられるとまでは言いたく無い。 だが・・それを救い、

いつの日か復帰させようと言うのが、精神病院だ ・・ と 言っておこう。

・・ ネルフ病院に精神科が存在しないのであれば、それはそれで重大な

問題だ。 彼らは常に非常識的な事態の中心にいて、非常識的な勤務に

明け暮れている。 そして内部で勤務するのは皆 どこか精神を病んでい

て、ぐっすり眠ることもできない ・・ 疲れ切った大人達と、問題を持った

子供達である。 私がもしゲンドウの立場なら、何は無くとも精神カウンセ

ラーをどっさり雇うだろう。 ましては子供達には専属の、何でも話し合え

る優秀な精神科医やそれに準ずる人をあてがうべきである。 少なくとも

強大な責任を伴う仕事を背負っている葛城ミサトに、その荷は重過ぎる。

(まあ、ゲンドウのような精神に問題のある人間望む事ではないが(笑))

自我が脆弱で精神も幼児的な彼女には、例えシンジ一人の精神のケア

をすることすら、満足にかなわぬはずだ。 もちろんシンジよりも遥かに

難解なアスカのケアなどは できようはずもない。 そしてその予想通り、

葛城ミサトは自らの感傷的な動機から来る行動に手一杯になり、シンジ

のケアすら満足に手をつけられない状況になる。 29歳とも思えぬ弱さ

だが、そこがリアルすぎる描写であり エヴァンゲリオンの魅力の一つだ。

彼女は破滅型の人間にも見える。 芸術家にありがちな 花火のような

女性。 しかし、それを言うならネルフには彼女より数十倍 ピタリとその

枠にはまる女性がいる。 言うまでも無く 赤木リツコ博士だ。 彼女は

アスカよりも脆弱な神経を持ち、激情の人だ。 だからこそ、それを恥じ

て冷酷な顔をする。 本当に冷酷な人間は 冷酷な顔などを作らない。

弱い犬が吠えるのと同じ。 心が弱い彼女はそうして、自分を守りつつ、

世の中を歩いて来たのだ。 激情の人は思い込みも激しく、熱烈な愛に

生きるのもよくある話。 恋人と供に若くして海に身を投げるタイプだが、

恋人は供に飛び込まず、 彼女だけがLCLに溶けた。 (話がそれたな)

ある意味、リツコは非常にレイに似ているようにも思える。(ちとムズイな)

アスカに必要なものはなんだったのか。 言うまでも無く 『 母親 』 だ

ろう。 『 父親 』 も同じくらい(ともすれば母よりもっと)必要なのではな

いかと思われるが、父親に固執する描写がほとんど無いのは 彼女の

父親が、彼女が小さ過ぎる時に死んだからかもしれない。(試験管うんぬ

んは漫画オリジナルの設定だ) 私は彼女にとって、加持が父親役だっ

のではないかとも思うが、 もし 劇場版でアスカが復活するキッカケが

加持であったら・・ 恐らく直視できぬほど 強烈で嫌悪感を感じる物語に

なっていたように思う。 リアリティがありすぎるからだ。 もっとも、母親の

幻想にはしゃぎ、まるで100点のテストを誇らしげに見せて 誉めてもら

いたがる幼女のように 自衛官達を次々と殺してゆく彼女の姿は、十分

異様なものではある。 (どちらにせよ、正常な復活とは言えないと思う)

・・ よって、彼女に最も近い少年の出番となる。 もっとも 境遇的にア

スカにこの世で1番近いのは 綾波レイなのだが、彼女は良くも悪くもア

スカに近すぎる。 生れも育ちも現在の地位も、そして同じ女性であるこ

とも災いであろう。 もしシンクロ率でアスカを超えたのがシンジではなく、

あの水色の髪の少女であったとしたら、 おそらくアスカは信じられない

行動に出たようにも思える。 優等生でもなく、スポーツ万能でもなく、家

で大人しく料理をしている 情けなく、男らしくない少年が彼女に勝ったか

らこそ、アスカは標的をシンジに定めることなく 自分自身に設定したの

かもしれない。 それは シンジに助けられた時の反応(喜び)と、レイに

助けられた時の 彼女の異常なまでの拒否反応を見れば明かだ。

しかし これだけは言える事だが、 彼女の精神 ・・ いや 心の中のか

なり大きな部分を、困惑や怒りや戸惑いなど 様々な呼び方をされては

いるが、 碇シンジと言う名の少年が “占めていた” 事は、 想像に

難くない。 必ずその中には 親愛の気持ちが含まれていたように私は

思う。 よって惣流・アスカ・ラングレーを治癒するために、碇シンジに白

羽の矢をたてるのは 間違った選択ではないと思う。 彼はチルドレンの

中で最もアスカが心を開いている存在、 ふざけと やっかみ半分とは言

え、キスまで許した “気になる存在” だからだ。

(シンジがもし、勇気を持ってアスカの中に踏みこんで 彼女を受けとめ

 てあげたら、彼女は恐らく 失踪などしなかったのではないか?甘い?)

エヴァ小説の中で、レイとシンジとの心の交流を描いた話はよく見かける

が、アスカとシンジの心の交流を描く作品をまた多い。 それはLASや

LRSと言ったたぐいの問題ではなく、 ある意味この作品の “描かれな

かった” 不変のテーマの一つだ。 本来エヴァンゲリオンと言う普通の

作品があるのならば、 その中で描かれるはずのこの2つの命題を、

“普通ではないアニメ” のエヴァンゲリオンは放棄し、抽象的なメッセー

ジ論に舞台をうつした。 課題を残したとも言えなくもないが、問題の多

すぎるカップリングを処理するには、時間も費用もまったく無かったので

あろう。 よって 誰かがその尻拭いを買って出る事になる。 

・・ 俗に “痛い” や “イタモノ” と評価される作品の中に、時折今ま

で言ったような “命題” ・・ いや “問題” を真正面から処理しようとし

ている作品を見かける。 これは私の私見であるが、実例に近いアスカ

の治療に焦点を絞ったもののほうが、 リアリズムがあり 説得力と凄み

のある作品が多いように思う。 綾波レイは良くも悪くも 浮世離れしすぎ

ているフシがあるのだ。 ・・ しかし、“アスカの治療” を正直に書くこと

が容易だと言っているわけではない。 真面目に取り組めば取り組むほ

ど、恐らく難解で 指が重くなる文章だと思う。 リアルに徹すれば、綺麗

事は消え、 アスカの “狂い” を冷酷に描写せねばならない。 それも

おそらく長期間。 改善する見込みが薄かったり、回復が遅かったりする

事も当然だろう。 なぜなら彼女はあまりにも昔から、 “精神に無理をさ

せ続けて来た” からだ。 ねじまがり過ぎたヒモをほどくのは大変だ。

時として暴れるかもしれない。 シンジに物を投げつけ、意味不明の事を

叫びつづける 幼児化し、狂った彼女の描写も 何度か見たことがある。

ある意味 リアリティーのある、・・ 凄くショッキングな描写ではある。

しかしながら、彼女のこれまでの経緯を考えると こうした極めて慢性的

な、言ってしまえば 生れつきの患者のような行動をとると言うのは私的

にあまり リアリティーは感じない。 けれど精神分裂病者の中には、ま

わりからの言葉や行為が すべて悪意のあるモノに変換されて伝わる

例も多いと言うから ありえない話ではない。(大丈夫?とか 元気?と

か言われても 人間の言葉に聞こえず、自分を殺そうとしている“言葉”

のイメージとして伝わったり、 “その言葉に答えるとお前は死ぬぞ” み

たいな恐ろしい声が、心の中に響きつづけたりする。 最近頻発している

通り魔殺人事件で “殺せ” “殺せ” “殺せ” と頭の中で声がした ・・

と言うものや、まわりの人間がすべて悪魔に見えた ・・ と言うのもこれ

と同じ場合が多い)  ・・ タイトルも置いてある場所も失念してしまった

が、(古い作品だと思う) 驚くほどこのあたりをリアルに描いている作品

もあった。 確か精神科医とシンジが供に強力して治療にあたり、長い

年月をかけて ゆっくり彼女を治癒する物語だった。 シンジが家から

いろいろなアスカの持ち物を持ってきて、どれに興味を示すか ・・ そし

て それを軸に(確かコップ) “安心” や “愛情” などのイメージを彼

女に伝える話だったように思う。 作者の方は 相当博識か、勉強家なの

だろう。 普段はあまり “痛い” 作品は読まない私だが、食べず嫌いを

していると損をするのが世の常だ。 食べるだけではなく いつか痛いも

のを書いてみるのも良いかなとも思う。 ・・もっとも、ラブラブでハッピー

な物語を書く人も、シリアスで痛すぎる現実を 冷酷に書く人も、本当の

ところでは皆 アスカの幸せな笑顔を願って、 キーを叩いているのだと

思うのだが ・・・ いかがなものであろうか。

・・ やれやれ いささか話が長くなりすぎた。(笑) 何も考えずに

書き出す日記で、少しは内容のあることをやろうとすると どうにも知能

が追いつかずに、途中で崩壊してしまう。(^_^;) 無難にシドニーのサッ

カーの感想でも書いておけばよかったかな。 そいではまた明日。

最後に、アスカのような分裂症を起こした人への “最良の治療方法”を

御存知だろうか? いささか現代では 真っ直ぐ過ぎて恥ずかしい言葉

かもしれないが、 それは 『 愛 』 そう 『 愛の力 』 だそうだ。

ともすれば人々は思い至らぬかもしれないが、 心病める者は時として、

本当に誰よりも美しく、愛を歌う事があると言う。

私が稚拙ながら、 愛し 愛されて、 心を再び取り戻す少女達を描いた

のは、 思えばひどく 合理的な理由だったのである。 ・・ (かもね)

 

9/12(火)

“高級オーディオ感ただよう” が、キーワードらしい。

何の話かって? 先日秋葉原に登場した、国産のアルミ製PCケース

『 TB−2000 』 の話だ。 ・・ 今や “アルミケース” はPC業界

特にDIY市場(つまり自作市場)においてちょっとしたブームである。

高品質・高級・高機能。 3Kがアルミケースの“売り”だ。 作りがし

っかりしていて、素晴らしい。 ある程度高級で高価であり・・ それ

が所有する喜びと、他人への優越感をもたらしてくれる。 そして、

アルミを採用したことにより、内部の空調に優れて PCをより高機

能にしてくれる ・・ と、なにやら凄い人気である。 あまりの人気

のため 便乗しようと 続々と新しいアルミ製、高級ケースがリリー

スされはじめた。そして、そうなるとどうしても“他の製品との差別化”

をしなくてはならず ・・ 最近は星野を代表とする “デザイン性”に

も重きを置いた製品が、ズラッとお店に並んでいる。 ・・ どうやら

高速化高速化、やみくもな大容量化などなど 中身にばかり熱をあ

げていたPC業界も、やっと落ちきはじめたのか 後ろを振りかえっ

て、自分の着ている服が 中身からすると、ひどくみすぼらしかった

事に気付いたらしい。 サウンドカードに気を使い出したり、接続し

ているPC用のスピーカーに疑問を抱いたり ・・ パソコンもそうい

う “時期” に入ったと言うことだろう。 ・・ しかし、慌ててお洒落

をしようとして、1番大切な事を忘れてはいけない。 今日は ”デザ

インのお話” を しようと思う。

『 どこが高級オーディオやねん 』 と言いたい。

新発売で浮かれているところに 水をさすようで心苦しいが、これ

でも オーディオマニアの端くれとして こんなレベルのシロモノに、

『 オーディオ製品 』 と言う言葉を持ち出して欲しくはない。

(高級オーディオと言う言葉自体が恥ずかしいが(笑))

オーディオ世界には いろいろな宗派と言うか 考え方によっての

“ジャンル分け” が存在するのだが、少々乱暴に 大雑把にふた

つにわけてみると、 『 値段・外見・素性などはおかまいなし。た

だ単に、自分の理想の音を追い求めるタイプ 』 と、 『 オーデ

ィオをれっきとした趣味として考え、プライドを持ち ・・ CDなどを

“演奏” する者として、ふさわしい機器をそろえるタイプ 』 とが

いる。(断言かよ) 決して “貧乏・自作派” の “理系人間的”

な 長岡・江川・飯田派閥と、 “成金・悪趣味・社長・医者” の

“わけしり顔の文系人間的” な 菅野派閥と言う意味ではない。

(いつか刺されるな、俺は)  『 志(こころざし) 』 の問題だ。

・・ 後者の弁を借りるならば 『 オーディオ機器 』 とは、単な

る電気で動く機械ではなく ある種の 『 工芸品 』 である。

そして、音楽を奏で ・・ 芸術を再現する 『 芸術家 』 として

の実力を持っていなければならない ・・ 普通のテレビや冷蔵

庫とは違う 『 美術品 』 に近い存在でなければならない。

すぐれたオーディオ機器には、一目見ただけで “惚れて”しま

うような魅力(魔力)がある。 それは物体としての魅力であり、

流行りの言葉を使うなら 『 MONO 』 としての魅力だ。

例えば 数十年前の、手回し式の手作り時計。 目玉が飛び

出るほど高価であるにも関わらず、 壊れやすく・・ メンテナ

ンスも重要。 しかし、性能的には千円くらいのデジタルウオ

ッチにも劣る、そのレトロな時計には あらがえない 『 MO

NO 』 としての魅力がある。 その魅力は時として、“歴史”

を感じさせる風合いだったり、“手間を楽しむ心のゆとり”だっ

たりする。 古いけれど、伝説の名スポーツカーや ライター

や貴重なジーンズ。 それぞれに魅力の理由は沢山あるだ

ろう。 しかし 『 MONO 』 としての魅力を持つそれらに

は あるひとつの 『 共通した 』 特徴がある。 それはず

ばり、 『 機能美を持っていること 』 だ。

“機能美” とは何か? 機能美とは 『 機能的な美 』 では

ない。 言うなれば 『 機能を追及した結果、その物体が持つ

ようになった美しさ 』 である。 例えば 『 MONO 』 に拘

るならば、『 美 』 ばかりを追求し、ゴツゴツ、イガイガの冷た

いデザインの腕時計を作ったとしても それが腕につけると物

凄く “痛かった” ら、人気商品になるわけがない。 ジーンズに

人気があるのは 『 青いズボンを作ろう 』 と言う事から作ら

れたモノではなく、 “タフな作業に耐えられる生地” や “ヘビに

襲われない色” などなどの 『 機能 』 を持たせた結果、う

まれた 『 製品 』 なのである。つまり “デザイン” が中心

ではないのだ。 F1のレースカーのように、競輪の自転車の

ように “早く走るため” に ”必要な機能” を追及した結果、

それらのデザインは まるで “早さ” “スピード” を物体にし

たかのような、 美しく、カッコイイ 『 本当のデザイン 』 と

して出現する。 それらは言わば 『 偶然の産物 』 であり、

薄っぺらなカッコ良さではない 『 意味のあるデザイン 』 と

して存在するのである。

大切なのは 『 デザインの定義 』 ではない。 『 デザイン

の意味 』 『 デザインの本質 』 にある。 デザインは中身

を表すものでなければならない。 デザインは “意味のある

表現” なのだ。・・ かと言って、『 人生はデザインだ 』 と

か言いはじめると どこぞの専門学校のCMヨロシク、アホら

しい哲学迷路に迷い込んでしまうのだが・・ここではとりあえず

少なくとも私は、 『 機能美的観点から発生したデザイン 』

が好きであると ・・ そういう事にしておこう。

より手になじむカタチ。 より人間にやさしいカタチ。 最近話

題の “エルゴノミクスデザイン”(人間工学) も機能美のひ

とつ。 手を置くとしっくりくる ・・ いつまでも触っていたいよ

うなカタチを追求した結果・・ 生れたマウスやキーボードを、

即座に “カッコ悪い” と切って捨てる人はあまりいないだろ

う。 “カッイイデザイン” だけれど、使っていると手が痛くな

るようなマウスのほうが100倍はカッコ悪いと私は思う。

つまり “名は体をあらわす” ・・ 名前もデザインのひとつ。

もっとも、“外見が中身を決める” のではなく “中身が外見

を伴う” のかもしれない。 鏡を見るのも重要である。

・・ さて、オーディオに関して言うなれば 『 機能美 』 とは

『 音の良さを追求した結果 』 に発生するものだ。 音の

波動の乱れを最小限に抑え、 電気の流れを限りなくスムー

ズにし、 音の鮮度を守るために内部を限りなく小さく、シン

プルに ・・ 部品の品位を高め、振動を排除し ・・ 限りない

労力を払って 『 機能美 』 を持つ製品は作られる。 そし

てその製品には 『 機能美 』 だけではない。 儲けや値段や

時間を無視して、大の大人が 完全なバカ少年になりきって

作り上げた 『 音楽への想い 』 が封じ込められていなけ

ればならない。 メーカーの、製作者の、 音への愛情やオー

ディオと言うものへの考え。 そして 自分の拘りとプライドが

見え隠れしなければ、決して究極のオーディオ製品、つまり

“ハイ・エンド” は生れない。 そして、本当の中身を持ち

本当のデザインをほどこした製品には、 それを作った者の

姿が見え隠れすると言う。 ・・ まさに “伝説の名機” だ。

素材にこだわるのも確かに大切だ。 もちろん機能を追及しな

ければならない。 けれど、現在のPCケースのデザインに関し

て言うのであれば あまり “意味のあるデザイン” が存在して

いるとは言いがたい。 メーカー製品や、自作ケースなどを見ま

わしても、男達の熱い視線を集め ・・ 後々まで語り継がれる

ような、製作者の何らかの “メッセージ” を感じさせてくれるも

のは少ない。 例えばここに表示してある NIRO のパワーア

ンプ。 このデザインは “音の入力” と “出力” の回路をま

るで2階建てのビルように完全に分離することで、音の“純度”を

高め、巨大な上部の放熱板で すさまじいアンプの熱を発散す

ると言う 『 意味 』 から発生した、まったく素晴らしいデザイン

だ。 今のようにペンティアム4の1ギガヘルツだの 2ギガヘル

ツだのと 熱量が凄まじくなり、空冷では追いつかず 自作ユー

ザーまでも水冷や液体窒素のようなものまで使う時代において、

こんなカタチの “PCケース” があっても良いと私は思う。

電源部やマザーボードやビデオカードなどは 上部で十分に冷

却し、(冷え方も半端じゃないだろう) 下部にはサウンドカード

などのほかの部品を配置すれば、PC特有の嫌なノイズも出ない。

まったくもって合理的。 リリースすれば大変な人気商品になるか

もしれない。 (エンブレムつけるところもあるしね(笑)↓)

値段なんてどうでもいい。 なぜならここまでに掲載したオーディオ

機器は、どれも100万円はおろか 200万円以上は当然するよう

な ハイ・エンド、モンスターマシンばかりだ。 しかし 問題はアルミ

製かどうか? や 大きさがどうか? や 値段がどうか? ではな

いのだ。 デザインは 『 志(こころざし) 』 に帰依する。 確固

たる思想にのっとって産み出された製品ならば、 安い素材で構成

されていようが、物凄い値段になってしまおうが 必ず 『 売れる 』

なぜなら 『 魅力があるから 』 だ。 必要も無いのに 2個も3

個も手元に置きたくなるようなモノ。 用も無いのに 毎日眺めてい

たいもの ・・ あなたの部屋にもいくつかあるのではないだろうか。

『 100万円すれば良いモノだ 』 と言うのではない。 採算を度

外視して 好き勝手に作ったら 『 100万円になっちゃったよ、ま

いったね〜・・ こりゃ〜 』 ってなモノが 『 カッコイイ 』 のだ。

高級オーディオだから、高級PCケースだからと言って ボタンが

ダイヤモンドだったり 金箔だったりしても、そこに 『 意味は無

い 』 (そーいや漆塗りのPCケースもあったっけね) 要するに、

『 100万円!? たっけー!! 』 で終るモノと、 『 う〜ん・・

100万円か ・・ 10年、いや何年かかっても 絶対にお金ため

ていつか買うぞっ!じじいになっても! 』 と思ってもらえるモノ

は違うのである。

では “PCのデザインのハイエンド” とは どんなものだろうか?

いったいどんなマシンが凄くカッコヨク ・・ 絶対に欲しいと思う

マシンなのだろうか? 悲しいかな、現在 DOS/V(死語) つまり

AT互換機(死語) つまり Windowsマシンの中には これといっ

た製品は無いと思う。 どれもこれも目先のデザインに流されてい

る印象が強い。 少し前のこの日記で登場した 部屋のエアコン

(冷房)と接続する すごいパイプがついたPCケースは あまりに

機能的でバカ過ぎてカッコよかった。 名前は確か 『 ヒエロン 』

ネーミングセンスも流石だ。 はたして売れたのだろうか?(笑)

Windows陣営の、猿真似デザインは やはり本家オリジナルに

はかなわない。 OSもPCケースも どんなに進歩してもアジアの

パチモン商品の匂いがぬけないのも無理はない。 97年の9月

に アップルコンピュータにスティーブ・ジョブスと言う カリスマ男

が戻った後 ・・ 正月に放送された 『 シンク・ディファレント 』

と言う アップルのコンセプトCMについて この日記で同じような

ことを書いた記憶があるが、 どん底の泥沼をさまよっていた、

死亡寸前のアップルが、 『 I・MAC 』 を引っさげて 不死鳥

よろしく痛快な復活劇を遂げたのは記憶に新しい事だ。

(日記じゃなくて、別のコラムだったね そーいえば)

どこぞのエキスポか何かで、発売前の 『 I・MAC 』 の安っぽ

い質感ながら 洗練されたデザインのディスプレイに ただ1行

“Say Hello again!!” と書かれているのを見て それからの出

来事の予感がしたのは事実だ。・・ 初心に戻って再出発と言う

意味もあったのかもしれないが、おそらく初代Apple やAppleU

が発売になった時のような ワクワクするショックの再来 ・・・

そして 起動すると “こんにちわ!” と言うマシンの復活を意味

していたのだと思う。(気分的に) 悔しいが アップルには ・・

いや ジョブスには “夢” “理念” “メッセージ” がある。そし

て確固たる ”理想のコンピューター” のイメージがあるのだろ

う。 それは恐らく 最先端の機械にもかかわらず、どこか懐か

しく 可愛らしく、 言うなれば自然にそばにいてもおかしくない、

友達ようなコンピューターを作りたい・・ と言う事なのではないか

と これらの製品を見ていると 私は思う。

この会社にかかれば、ショッキングなほど大型で、驚くほど高額な最新

の液晶ディスプレイも、こんな具合に。 そして

高性能でマニア向けの機体であっても ・・ そのメッセージ

やコンセプトは揺らぐことはない。 マウスやスピーカーや

WEBのデザインに至るまでその姿勢は同じだ。 これは必

ずしも  “デザインの基本や色使いが統一されているだけ”

と言う問題ではない。 すべての商品をひとつの ”思想” 

が貫いている結果なのである。 (誉めすぎかもね(笑))

・・ デザインは決して、軽々しく扱って言いものではない。

自分で言っておいて 耳が痛い話ではあるが、カッコつける

だけなんて言うのは 酷い誤解である。 機能が内面の充

実ならば、デザインは外面の充実だ。 二つのバランスが

何よりも重要 ・・ と 言うことかもしれない。 カタチの悪

いアンプやスピーカーは、買おうと言う気はおろか ・・ 聞

いてみようと言う気も起こらない。 反面、やたらとスペック

が良くて 値段がバカみたいに安いけれど ケースが死ぬ

ほどカッコ悪いパソコンは 『 とりあえず買おう 』 と思っ

てしまう。 机の下にでも押しこんで、見えなくしてしまえば

OKだと。 ・・ なんとアホらしい、悲しい状況だろうか。

G4キューブを買って、このマシンを足の下に押しこむ人は

はたして何人いるだろうか? それを考えると情けない。

・・ かと言って 何もマックこそが PCデザインの究極だ。

ハイエンドだと言っているわけではない。 何しろ私はマッ

クユーザーではない。 バリバリのWindowsユーザーだ。

( ここ と ここ ・・ なんと対照的なデザインだろう(笑))

・・ いつの日か、ワクワクするマシンを手にしてみたい。

レインのOSのような?(笑) 楽しいマシンでもいい。

もちろん外見、内面ともにだ。 400メガヘルツで5万円

のマシンと、1ギガヘルツで20万円のマシンの見た目が

まるで同じなんて悪夢である。 PC業界には あたまを

冷やす時間が必要なのかもしれない。 大切なのはバラ

ンスなのだと。 たぶん、アップルコンピューターと言う

会社には、パソコンの高速化ばかりではなく、そこらへん

のことも考えてる人間が、何人かいるのかもしれない。

 

9/10(日)

昨日の夜、時間を見つけてチャットに出たのだけれど、すぐにレスポンス

が不調に陥り、『 土曜日だから混んでるのかなぁ〜? 』 と思ったら、

突然回線が ブチッ! と切断され、電話がかかってまいりました。

『 誰だぁ〜? こんな時間に ・・ 』 と思いつつ、電話をとると ウチの

おねー様が開口1番 『 財布っ!財布おとしたぁっ!(T▽T) 』

と 半べそ状態。(笑) なにやらクレジットカードやら銀行のカードやらが、

てんこもりの財布だったらしく、なにはなくとも それらのサービスを停止

させないとヤバイので、 『 確か机の上のメモ帳に暗証番号が! 』

『 化粧箱の横の手帳に 銀行の番号が! 』 などなど 電話片手に

姉の部屋を捜索することしばし。 すったーもんだー警察いけだの、終電

終ってるのにどーやって帰るんだとかやってたら 1時間以上が経ってて

やっとチャットに戻ったら浦島太郎状態。 (しんぴさん、三十の路さん、

ごめんなちゃい。(^_^;)) なにはともあれ やはり基本は ISDNなんだな

ぁと思う今日この頃でありやんす。( モデムとも卒業したいのぉ・・ )

と ・・ そんな私の願いを聞いてくれたのかなんなのか知りませんが、

掲示板に書いたように、何やら アホのNTTが 今ごろになってやっと、

日本の高度情報化を果たすために 高速通信網の整備に本気になった

ようで ・・ 光ファイバーのテストが 予定を大幅に繰り上げて今年の末

あたりから始まるそうです。 (電気コンセントでネット接続も来年らしい)

しかしながら問題は ”現実味” の話。 値段を含めての ”手軽さ” が

なければダメです。 誰も彼も どんな初心者でも 簡単にメガクラスの通

信速度が手に入らなければ、これからの情報化社会(古いねぇ)は成立

しませんし、その速度のレベルに応じて 世の中の変化の度合いも変わ

ると言うモノ。 少なくとも ”ビデオ画質” の映画をネットでリアルタイム

(ストリーミング)で鑑賞できて、 歩きながら持ってるオーディオ(ウオー

クマン)機能付きの携帯電話では、 自分の家のパソコン・もしくは専用

のサーバーから好きな曲を好きなだけダウンロードしながら聞けるように

なるくらいが最低限到達しなければならない未来像でしょお。(つまりモバ

イル通信が可能な端末なら、家に所有している音楽データを好きな場所

で好きな時に呼び出せる) そこから先がどんな未来なのかはわかりま

せんが、人間が距離や時間に束縛されない ”もうひとつの空気” のよう

な存在を 自由に手にできるまで 止まる事は無いだろうなと言う感じで

すかな。 10年先か、50年先かは知らないけど 私がおじーさんになる

前に 少なくとも ”甲殻機動隊” くらいは行ってもらわないと、ツマランな

あという気持ちです。(あれはバイオ(生体・脳)コンピュータだからアプロ

ーチ違うかも) ・・ 落とす財布を、持たずに出歩く日々は近い? もっと

も、 アンティーク趣味で 財布が流行するのかもしれないけど。 (^_^;)

 

9/8(金)

マッキンでドライブした ガルネリ・オマージュで、武田鉄矢の 『 少年期 』

( ドラえもん・のび太の宇宙小戦争”リトルスターウオーズ”のテーマ )を

聞いたら、二十歳過ぎにも関わらず泣きました。(涙) で ・・ そーいや、

その昔 私の人生の大半を占めていた 『 ドラえもん(特に映画版) 』 の

話を ちっともこの日記で書いてないなぁと思い、ダラダラ書こうと思ってい

る15の夜(ハタチ過ぎじゃねーのかよ) ・・ あの歌は卑怯だ、世代的に。

 

9/4(月)

たまっていたメールの返事やら、やろうと思っている大イベント(?)の仕

込みでキュウキュウです。(^_^;) ごめんちゃ〜い。日記おろそかです〜。

ニューマシンはマジで決まりました!(決めました) 予算が・・ 予算があ

とちびっと足りないのがタマにキズですが。(^_^;) どっかダウングレードし

てやり過ごそうかなとも 思っております。(あ〜はやくほしっすねぇ〜)

あと MUSE 特製グッズがマジでリリースされます。(笑) お楽しみに!

 

9/2(土)

先日、非常に面白いメールを頂いた。 まあ、内容はべつにここでうんぬ

んするものではないのだが、 『 世の中いろいろな人がいるなぁ 』 と、

思うことしきりだ。 ・・少なくとも彼には見込みがある。 (なんの話だろ) 

ネット上 凄い人も多いが、 唖然、呆然 愕然とさせられる人も多い。

(どちらが多いかって?聞かないでよ(笑)) このサイトの秘密(?)に気

付いている人も、少ないがいる模様。 もちろんゼンゼン知らない人もい

るけど これは ま、予定通りだわな。 (^^;) 私が爆発する日(笑) を

期待している人もいるのかもしれないが、 とりあえずそんなに安売りを

するつもりはないので、期待に添えるかどうかは怪しいところだ。 いや、

EVA小説界は実に楽しい。 ゲラゲラと毎晩爆笑である。(笑) 大丈夫な

のかって? アホか(笑) これくらいで気付くようなら苦労しないよ。(^^;)

 

9/1(金)

今度はシドニーらしい。 言わずもがな 地球の祭典、オリンピックと言う

やつだ。オリンピックはスポーツの祭典だとか言ってるアホがいるが、誰

もが知ってるとおり、あれは鼻血が出るほどの一大儲け話&見栄の張り

合い。 つきつめれば代理戦争みたいなものだ。 言うなれば犬の散歩と

大差無い。 闘争本能や殺戮本能。そしていじめ本能、破壊衝動などは

人間が大昔からしっかり持って生れた機能なので 適度に発散しないと

カラダに悪いのである。 いじめっこや キチガイに刃物な17歳や 女房

子供をぶん殴る親父なんかは より犬っころに近い 旧人類なのだ。さっ

そく捕獲して、ホルマリンに漬けて研究しよう。 ・・ 好きか嫌いか? と

言われるとちと困るのだが、 まあ 無条件で歓迎するほど オリンピック

は好きではない。 毎回耳を疑うような金額が あらゆる国と企業の間を

いったりきたりするたびに 『 少しくれねーかな 』 と思うくらいに関心度

はある。(あるのか?) スポーツは嫌いではないので 競技をテレビなん

かで見ることもある。 ただ マラソンとフィギュアースケートはあんまり好

きじゃない。 マラソンはやっている人が楽しくなさそうなのと あまりに非

生産的な感じがして昔から嫌だ。 フィギュアスケートは芸術とスポーツの

両立に見事に失敗。 必要のない3回転だか 4回転だかに固執しまくり

尻餅をつきまくる選手だらけで 見ていてハラハラドキドキ・・ 痛々しくて 

演技に見惚れるどころではない。技術点なんぞドブに捨てろ。必要ない。

オリンピックの花形 ・・ 陸上競技も 正直言ってあんまり面白くなくて好

きではない。 基本的に単純な行為は嫌いなのかもしれない。 ゲーム性

のある野球とかサッカーとかテニスとかは好きだ。 どうでもいいことだが

これでも元テニス部主将だ。(笑) むろんオリンピック選手のように勝つ

ことに執着せず、ただひたすら ”楽しむ事” に執着したおかげで、うち

の部は テニスとしては低レベル。 代わりに 『 打ち合っている間に、

どれだけ自然に テニスボールとバレーボールをすり替えられるか? 』

とか 相手が球を打つ瞬間に 『 フンボルトペンギン! 』

とかいろいろ 響きだけが面白い言葉を叫んで 相手選手を笑わせ、呼

吸困難に陥らせて勝利するための 『 言葉の練習 』 とか どれだけ

正確に審判にボールを直撃(もういいよ) ・・まあ、まっとうなスポーツの

楽しさもよくわかっているつもりだ。(これでも) もちろん感動的なドラマや

熱狂する世界新記録が出た瞬間など ・・ オリンピックでも凄いなぁと思

う時も多々ある。 ・・あるのだが、どうしても物事を斜めどころか 南南西

上空9千メートルくらいから眺めてしまう人間なので それらをあまり素直

に受けとめられない。 感動のドラマだかなんだか知らないが、やっぱり

オリンピックと言えば記録だろう。 けれども、このまま何十回 ナン百回

とオリンピックが開催されていくにつれて、さらに早い記録に塗りかえられ

最終的には 人間が100メートルを 5秒とか2秒とかで走りぬける時代

が来るのだろうか? ふと気になって 先日 ”オリンピックの歴史” みた

いな本を眺めてみたら、 ここ数十年・・ほとんど記録に変化は無かった。

そりゃあまあ、0.02秒とか 0.08秒とかづつ 早くなってはいるし、陸

上に命をかけている人からすれば 物凄い進歩なのかもしれない ・・ 

では 現在の選手より 昔の選手のほうが身体能力が低く、精神力が弱

かったのだろうか? これはわりと疑問なところである。 なぜなら計測器

や試合をやるスタジアムの環境 ・・ その他もろもろまでも進化している

と思えるからだ。 (無風のドーム会場、理想的な氷の状態を作り出すシ

ステム。人口雪とかも進化してるのではないか?) もちろんそれだけで

はない。 いろいろ調べてみると物凄い事実に驚いた。それは選手が使

っている 『 道具 』 についてである。 わりと有名な話ではあるが、陸

上選手のシューズやら着るユニフォームやらの 開発費と言うか、 あれ

を作り出すための苦労やら費用やら時間やらを御存知だろうか? 専門

用語が多くて なんやかんやとさっぱりわからなかったが(笑) とにかく

『 おまえらはF1のレースカーでも作ってるのか? 』 と言いたくなるよう

な苦労を経て、1個の運動靴が完成しているらしい。(値段も凄いみたい)

その労力たるや大変なものだ。 もちろんそれを履く選手だって物凄い。

もともと足が早いのはあたりまえだが、そのトレーニング方法の科学的な

ことと言ったら 『 そんなことまでするなら、足にモーターでも埋めこめよ 』

と言いたくなるほど凄い。 ・・ とどのつまり マシーンだ。 スポーツ選手

・・ それも オリンピックに出るような人は皆、人間のカタチをした スポー

ツマシーンなのである。 科学的に解析し、研究し、考え尽くされた方法で

トレーニングし、理想の筋肉 理想の精神を作り上げ、 それを理想的な

”武器” で包んでゆく。 それが運動靴であったり 棒高跳びの棒であっ

たり いろいろあるが、 ”金属で作られたパーツ” ではなく ”人間の筋

肉” であると言う事以外は 単なる ”機械改造” であると言える。マラ

ソン選手が試合の前に 高地トレーニングをし、空気の薄い場所で自分

の心肺機能やら 血液やらの能力(耐性)を向上させ、 低い標高のマラ

ソン会場に戻って来て すごいレースをやるのは有名だが、よくよく考えれ

ば これだって立派な 『 改造行為 』 である。 もっとも トレーニング

と言うものが もとからすべて 『 人体改造 』 と言えなくもないと言う意

見もあるが、 はたして現在のトップレベルの選手達が 昔の設備、昔の

道具・・ そう 50年くらい前のオリンピックに出たとしたら、現在のような

記録は出せるのであろうか。 おそらく私は 『 やりすぎ感 』 が漂って

いるからオリンピックが好きではないのかもしれない。 高校野球は好き

だけれども プロ野球に興味が無いのと同じだ。 隣りの奴よりも早く走る

ことは重要だし、オリンピックに出るくらいの選手なら 負けられないプラ

イドも理由もあるのだろうが、だからと言って 女性が男性ホルモンを注

射したり スタートのテクニックや 最後に前傾姿勢になって テープを切

るテクニックやらを磨いたり、 禁止されている以外の薬物を摂取しまく

ったり (これは常識らしいが) つまりなんでもアリで戦うのはいかがなも

のだろうか? そうまでして一位になりたいのなら、いっそのこと 薬物や

人体改造オールオッケー!何の規制も無しにしたら良いではないか。

ドーパミンだか筋肉増強剤だか知らないが、そんな生易しいものじゃなく

ニトログリセリンでも10リットルくらい飲んで、足に小型ブースターやら、

ロケットエンジンやら 半重力装置でも埋めこんで出場しろと言いたい。

轟音と爆音を上げて、ゼロヨン真っ青の加速で 100メートルを2秒くらい

で駆けぬけ(飛んで?) 記録と引き換えに ゴール地点では100歳くらい

に老化していると。もちろん両足は吹きとんで消滅(どんなクスリだよ(笑))

これこそまさにオリンピックだ。 んなアホなと言われるかもしれないが、

ただ単に 『 禁止されてるからやらないだけ 』 であって、 心情的には

似たようなものだろう。 スポーツマンシップ万歳! ・・ つまり 『 やりす

ぎ 』 であり、 結局のところ 『 大人気無い 』 のだ。 『 だいにんき

ない 』 ではないぞ? そこの中学生。 『 おとなげない 』 のだ。

・・ 例えばクラスで自分がいじめられているとする。 いじめっこは怖くて

うでっぷしも強い。 ケンカしようものなら とりまきも参加されて 袋叩き

にされてしまう。 『 ケンカに強くなりたい 』 『 いじめられないようにな

りたい 』 と思うのは良いが、だからと言って ボクシングジムや合気道

空手に柔道といろいろ習得して、 いじめっ子をボコボコに叩きのめすの

はアリだろうか? と 言うことだ。 理屈から考えれば 『 べつにいーん

じゃないの?ついでに殺しとけよ、ケケッ 』 と思うけれども、その行為

が 『 子供っぽくないか? 』 と聞かれると 『 そうだね 』 と答えざるをえ

ない。 いや 物凄く 『 大人気無い 』 そう言えば ある有名ボクサー

は いじめられっこだったからボクシングを始めたらしいが、 どうりで今

になってもガキなわけだ。(コラ) ”たかがスポーツ、 されどスポーツ”

私の場合スポーツは好きだけれども 『 されどスポーツ 』 と思うほど、

人生において多くを占めるものでもない。 もっとも 一人の選手がその

スポーツにのめりこみ、 『 強くなって世界一になりたい 』 と望ことは

勝手だし 好きにしてほしいとも思うが、 『 世界一 』 を提供する場所

そして祭典として オリンピックがふさわしいとは思わない。 いや ふさ

わしくない。 オリンピックの選手は 個人である前に その国の国民で

あることは明かだ。(開会式・閉会式など) 違うと言われても信じない。

競技中にはいつだって 画面にその選手の”所属している国” の国旗が

映し出されている。 オリンピックが戦争の代わりとして作られた以上、

どうあがいても彼らはやはり ”兵士” であり ”戦士” だ。 『 敵の兵士

に負けるなど許されない 』 のだから、国をあげて 選手をバックアップ

する。 そう 選手達はスポーツマシンですらない。極論を覚悟で言ってし

まえば 彼らは 『 兵器 』 だ。 もちろん オリンピックを見ているすべ

ての人が 『 山田VSジョン 』 として見ているのならば それは素晴らし

い事だ。 だが 『 自分の国VSアメリカ 』 と見ている人が多いからこそ

あれだけ熱狂するのではないだろうか? なぜなら観客はみな 『 山田

さんの関係者 』 でも 『 ジョンの関係者 』 でもないからだ。 彼らが

属するものは 『 国 』 でしかない。 オリンピックが ナショナリズムの

激突と言われる所以だ。 では ・・ オリンピックの化けの皮をはぎとるべ

きだろうか? 代理戦争色を全面に押し出し 結果は常に 『 アメリカ

勝利! ジャップ敗北! 』 とデカデカ表示。一喜一憂する各国の首脳

の様子も同時中継し、 金メダル獲得表示は さながら 占領した領地の

ように表示・・と。 あなおそろしや。 しかし オリンピックにおいて白々しく

スポーツによって世界平和を。 とか より良い未来を とかをスローガン

に叫ぶのも どうも薄ら寒い。 本当にそう思ってるなら 国ごとにわけた

りしていないはずだ。 スポーツは国境や人種を超えると言うなら 国別

の金メダル獲得数情報など計算するな。 優勝したら国歌なんぞ流す必

要 本当にあるのだろうか? どうもよくわからない。 理想的なオリンピ

ック。 それはたぶん 自分の能力の限界まで出して 極限状態で戦う

スポーツマン達。 国も何もなく人間の限界に挑戦するチャレンジャーを

集めたものだろう。 そして もし シドニーに集まった彼らがそうならば、

その者達の肩に ”自分” 以外のよけいなモノを背負わせる必要など、

ないような気がしてならない。

・・ そういえば最近、日本人の記録がいろいろ伸びているんだってね。

もしかしたら肩が軽くなったからかも? ・・ なんてね。